日常を笑うファインダー/AKIPINとSACHIKO(AKIPINの妻)

2019/08/25言葉の写真も撮りたい/AKIPIN

真夏の京都のいちばん暑いある昼に、「リビングのエアコンが調子わるい」と妻が言いだした。
リモコンで電源をオンオフしても、本体の電源をオンオフしても、本体のコンセントを抜き差ししても、「フゥーーーーー・・・・ン」と生温かいため息を吐いて止まってしまう。そんなときにぼくが家にいてよかった。ぼくは家電やネットが得意だ。エアコンの型番を迅速に目視してgoogle検索をし、対策として出てきたとおりブレーカーを一度落とす。めったに触らないブレーカーのレバーの少し固い手応えと、「パチン!」という快活な音が「解決」の訪れを告げている。そして再びエアコンの電源を入れると「フゥーーーーー・・・・ン」。寸分の狂いもなく、さっきと全く同じ生温かいため息しか吐かなかった。なんて生温かいのだろう。ぼくが家にいなくてもいても、エアコンがつかなくなった。食事をとったりして一番長く過ごしている一番大事な部屋のエアコンが。外はカンカン照り。テレビでは熱中症のニュース。家には元気な4歳の娘。昼を迎えたリビングがあれよあれよという間に温まってくる。これは大変だ。おもむろに妻が階段から2階に上がり、ピアノを置いている部屋のエアコンをつけ、その部屋のドアを全開にする。わが家では妻が小さなピアノ教室をしていて、2階に6畳の小さなピアノ部屋がある。次に妻は「扇風機その1」を的確な場所に置き、ピアノの部屋からあふれた冷気を階段にそって1階に誘導する。そして妻が、「扇風機その2」をリビング前の的確な場所に置き、「扇風機その1」が2階から誘導してきた冷気をこんどはリビング内に誘導する。ぼくが「どうしよ」とか「え、でも冬はガスファンヒーターつけてて暖房入れてないのにさ、こんなに早く壊れる?」とかぼやいてる間に、妻が最大限の対応をしていた。ぼくはその様子を見に行ったわけでもなく、「扇風機その2」が珍しい場所に移動したなあと思っていたら、ひと仕事おえた妻からその話を聞いた次第だ。
妻の行動はいつも的確で手早い。国語とか数学とかの勉強はぼくのほうが何倍もしてきたはずだけど、「生きる力」とでも言うような力は妻のほうが何十倍もあるなといつも思う。ほんのり温度が下がってきたリビングで感心していると「このエアコン11年も使ってるしもう換え時。この時期は工事も混んでてすぐに設置してもらえへんかもしれへんし、早めに買い換えよか」「今日の夜はピアノの部屋でごはん食べよ」と的確な提案がなされ、ぼくは「そやね」「そやね」と返事をした。家電とかネットとかだけは好きなぼくはスマホで<エアコン メーカー おすすめ 比較>などちびちびと検索して、いそいそと京都駅前のヨドバシカメラに一人で向かった。

エアコンの故障という珍しい出来事があって、でもいつもどおりの家族があって、「暮らし」だなぁと思う。
「暮らし」という言葉にぼくは思い入れがあって、インスタグラムにこんな投稿をしたことがある。

 

十年前、すでに結婚してた妻とぼくと友人夫婦で『夢』について語り合ったことがあり、ほとんど聞き役に回っていた妻が最後に「私の夢は、なんていうか、“暮らし”やねん」と言ったことを、今でもときどき思い出している。
(2017年8月11日 IG@akipinnote)

 

普通、もし「夢」として言うならば、「丁寧な暮らし」とか「無駄のない暮らし」とか、「暮らし」の頭に何かをつけるものだと思う。「夢は、暮らし」という表現は聞いたことがない。そしてぼくはこの言葉に感動した。

例えば「丁寧な」とか「無駄のない」とかはもちろん大切で、日々の中で意識したいことだなと思う。でも、それら以上に「暮らす」ということそのものが「夢」なら、それは何よりだと思った。妻のそれを叶えたいし、自分も同じように思いたいと思った。

友人夫婦とこの話をした1ヶ月後からぼくたち夫婦は、予想もしていなかった身体的な、そして経済的な試練を経験していくことになる。
それを経て、今から4年前には娘を授かるという奇跡にも出会い、いま3人で暮らしている。

「暮らす」というのはふしぎな言葉だなと思う。同じような意味で使われる「生活する」が「生」「活」という明るいイメージの文字で成り立っているのに対して、「暮らす」には“おわり”を意味する「暮」が入っている。

日本語としての厳密な意味を研究したわけでもないぼくの“意訳”だけど、「暮らす」は、「“おわり”が来ることををちゃんと受け止めて生きていく」というような言葉なんじゃないか。
この場所でこの人と過ごしているこの日々はいつかはおわる。一生はいつかはおわる。そのことを受け止める。だから、一日一日を大事におわらせていこうと思う。目の前にある今がいとおしく思える。
だから心に、写真で、言葉で、消えない“刻み”を少しでも入れられたらと願う。

 

〈立ちのぼる湯気〉は〈消えていく湯気〉でもあって、生きていることは終わっていくことでもあると思うから、やっぱり写真、撮りたいなぁと思う。
(2018年5月10日 IG@akipinnote)

 

 

「今」は消えていくと同時に、「新しい今」が立ちのぼる。いつかはそれもとまる。そのことを強く感じていればいるほど、湯気や季節や家族や友達とかがうつくしいのかなと、1年前は知らなかった人の写真と言葉を見て思った。
(2018年2月8日 IG@akipinnote)

 

ヨドバシカメラでは目の前の商品の金額と「ヨドバシ・ドットコム」というWEB上の金額をちびちび見比べながらエアコンを注文し、2日後に設置工事してくれる迅速さに安堵して18時ごろ帰宅すると、夕食の準備が始まっていた。
「折りたたみの小さいテーブル、ピアノの部屋に持ってあがっててくれる?」妻からの指示を受けたぼくは、うがい手洗いをすませるやいなや、言われたテーブルを言われたとおりに運ぶ。言われた料理の皿も運ぶ。他に何を言われるかに意識を集中する。娘がおもむろに、1歳くらいまで使っていた小さな木の椅子をかついでせっせと階段をのぼっている。「♪重たーいけーどねーがーんばーるぞー」独自の歌を歌い上げながら力強くのぼっていく楽しそうな背中を、言われたワインの瓶を持ったまま「ははは」と見上げる。
2階の6畳のピアノの部屋にはグランドピアノに加えて電子ピアノを設置していて、空きスペースはけっこう狭い。不要なものは隅によけ、小さな丸テーブルに大人2人分の料理をなんとか乗せ、もっと小さな折りたたみテーブルに娘が自分の料理を置いて、「いただきます!」と手と声を合わせてごはんが始まった。
妻のピアノ教室の生徒でもある娘はピアノを弾きながらごはんを食べると思っていたみたいで「コンサートだね!おかあさん弾いて!」と妻に言ったけど、「ごはん食べながらは弾かないよ。鍵盤もよごれるからね」とあっさり返されて口をとがらせていた。
エアコンの効いた狭いピアノの部屋で密集しながら食べるのは新鮮で、予想外に落ち着いた。生徒さんを迎える音楽部屋のきれいな雰囲気と、普段の生活が混ざりあったアンバランスもおもしろい。料理をさっき運んでいるうちに汗でべたっとなっていた身体も少しずつ冷やされて癒されていく。普段めったに飲まないワインをちびちびと飲む。妻が初めて作ってみたという鶏肉の串焼きみたいなやつや、定番の揚げ茄子田楽、それからオクラ、ピーマン、トマト、どれもおいしい。娘が「これおいしい、またつくってね!これもまたつくってね!」と、それぞれのおかずについて妻に言っている。妻が「ありがとう!つくるね」と笑っている。数日前にぼくが娘に「おかあさんのごはん食べておいしいと思ったら、『おいしい』って伝えよう。そんで『またつくってね』と言ったらきっとまた作ってくれるよ」と言ったことを思い出したのかなと思った。
不意に、最初に食べ終わった妻がピアノをポロンと鳴らす。考えてみたらこの部屋で妻のピアノの音をちゃんと聴くのは久しぶりだ。娘が生まれる前は、この部屋で妻がピアノを弾いてぼくが上手くもないのに歌って、そんなことをひたすら二人で楽しんだりしていた。
単純な和音を鳴らして娘が「ドミソ!」と答えるレッスン的なことをしていた妻はいつのまにか楽譜を立てて、「魔女の宅急便」の「風の丘」という曲を弾き始めた。よく聴いたことのある曲。好きだなと思う。真夏の夜、いつもと違う狭い部屋で、ひしめきあってごはんを食べて、目の前でピアノが流れる。お酒が少し回った胸に響いてくる。みんなで笑っている。不意に、(こんな時間や場面は、ゼロから考えようと思っても考えつかへんな)と思った。
生きていると時折、それまで想像したこともなかったような場面が目の前に現れる。それは「絶景スポット」や「マジックアワー」のようなものだけではなくて、いつものそこにある顔ぶれや、場所や、季節や、天気や、時間帯や、その日にあった別の出来事などが組み合わさって突如生まれる、新しい場面がある。何の変哲もないようで、奇跡のような場面だなと思う。そして(そんな場面を今こうしてみんなで生きている)という実感がものすごく生々しく胸の中に湧き上がる。発せられる一言一言が、笑っているいつもの顔が、家にいるときだけの適当な髪の毛や部屋着が、幸せだなと思う。
そんな場面は、日々の中にたくさんあるのだと思う。でもぼくはいつもすぐに忘れてしまう。忘れたことさえきっと忘れている。だから写真を撮っておきたい。そして、その生々しさとともに浮かんだ言葉を書き留めてもおきたい。それは<言葉の写真を撮る>とも言えるんじゃないか。考えてみれば、妻が言った「夢は、暮らし」という言葉もそれに感動したことも、当時やってたブログに書き留めたから今も覚えているんだろう。
ワインをちびちび舐めながら熱い顔でそんなことを考えている間にピアノの椅子に座っているのは娘に代わっていて、彼女は弾きながら考えているであろうおぼつかない、でもなぜか必然的でもあるようなメロディを両手で3分間ほど奏でたあと、椅子から静かに降り、発表会のような深いおじぎをした。

 
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